桜の花の下
 島田千鶴さん逝く            小鮒美江


 「四月七日母島田千鶴儀天寿を全うしました。」と、ご子息からのお葉書。介護施設に入られた事を知り案じていた矢先の訃報だった。
 島田さんは早くから「詩学研究会」に投稿して嵯峨信之氏に認められ推薦詩人になったという。「嵯峨さんを御案内して岡田刀水士先生のお墓参りに行った」と島田さんに聞いた。その頃の島田さんを私は知らなかった。「歴程」詩人の草津詩のフェスティバルで、はじめてお会いしてから時々電話を頂いたり話し合うようになった。
 島田さんは自我の確立した個性的な人だった。自説を曲げない人だった。
 フラメンコや地唄舞を本格的に習われ、発表会を見に行ったことがある。
 「軌道」の同人として長く詩を書かれていた。その後「裳」「水鏡」に作品を寄せられた。詩への思いが深く、いつも編集者を困らせるほど遅筆だったという。
 その頃からよく旅をするようになった。北海道や東北、海外へも何度も行かれたようだ。「旅は詩を書くため」と言ったが所謂旅行詩は書かなかった。旅で得たものを詩の中に独特の感性で同化させた世界を描いて見せた。「私は不器用な人間だから」と言った。
 「夫にはよい妻を演じて蓋している」とも。一人息子さんにはやさしい母。前橋の営林局まで二時間の勤めを定年まで続けた働く女性。そのどれも決して混同しなかった。しかし器用に演じ分けるのではなく、一つ一つ懸命に盡したのかもしれない。島田さんにとって詩人島田千鶴がほんとうの自分だったのだ。
 晩年緑内障で視力が不自由になり年刊詩集No.35の「吊り手物語」は金井裕美子さんが口述筆記したという。その年(二〇一二)の詩人クラブ総会に出席されたのが最後となった。
 長い詩歴の中、詩集は「水のない川」と「パンケーキ。アイス」の二冊。詩集を出したいと言っていたが叶わなかった。施設に入られてからも詩を書きたいと、裏の自い広告紙を何枚もボードに留め紐で結びつけたマジックペンで書こうとしたらしい。
 佐藤恵子さんと神保武子さんがお線香を上げに伺った時、ご子息が見せて下さったボードの一番上の一枚にだけ、太いマジックペンの紙いっぱいの大きな字で
 「オランダの森から/どの道を来て
  この草原へ/たどりついたのだろう」
と四行の詩が書かれていたという。この詩が島田さんの絶筆となった。最後まで詩人だった島田千鶴さんの心情と美学が切々と伝わってくる。桜の咲く季節に旅立った島田さん。お葬式には田口三舩さんと富沢智さんが来て下さったと、ご子息が感謝された。
 さようなら島田さん。
 淋しい春です。

(会報301号より)

 


追悼・武井幸子さん   原田鰐


 武井さん、あなたの通った駒込中学校のある旧染井村の界隈では、また桜のトンネルが眩しく広がり、少女時代のあなたが心ときめかせながら走り抜けたあの季節がやって来ました。
 日々は途絶えることのなくやって来て、去っては、またやって来る。人々はそこで出逢い、かけがえのない人生のドラマを繰り広げる。ドラマはやがて、静かに、あるいは唐突に、幕が降ろされる。人々はそれぞれの方角に去って、そのあと、舞台には誰もいなくなった。そう思った瞬間、いつの間にかもう舞台の上は行き交う人々で賑わっている。肉体は滅びても、新たな魂の鼓動が、舞台上では途切れることなく続いてゆく。
 一人の人間がそこにあるべきものとして生きる姿を、その営みが自然を織りなし、静かに世界を呼吸し、やがてやわらかに光輝き世界を可視化する。武井さんは、そんな世界をひたすら描写し続けた。
 突然、あなたもその舞台から去った。だが人にとって舞台とは肉体というかりそめが宿るための装置。だから、あなたはそこから解き放たれたのだ、と私は考えたい。そしてそういう世界を感じさせるあなたの詩篇を思い出す。
 あなたが、菜園で大根の芽をうる抜く、集めた大根葉のざるを持って立ち上がる。その時、あなたのからだの周辺にかすかな空気のうねりが生まれる。その空気のさざ波は、野山を過ぎ、川面を渡り、街の空の風となって、やがて地球をめぐる大気の流れとなる。宇宙へと、あなたは永遠そのものである。
 ―肉体は借りたものだから、丁寧に、分子にして、地球に返しましょう。言葉も、もう苦しみも嘆きも卒業ですから、空気にして、お返しします。文章で、自己を見つめる作業ももういいです。知性とか感性とかは、愛しい皆さんに感謝を込めてささげます。―
 いま身軽になったあなたは、時間にも空間にも束縛されることなく存在する。そうか、返すということはあなたが宇宙になるということだったのですね。そうはいっても、ひとりの死を受け入れても、その喪失の悲しみを癒すことにはなりません。取り返しがたい喪失の悲しみは感受性の防壁を決壊させて、人を精神の危機にまで至らしめる。それでも私たちは自分の力で、時には支え合って、武井さんとのお別れというこの現実から目をそらすことなく乗り越えて行かねばなければならない。なぜなら、私たちは愛する者の死の悲しみを耐え忍ぶことで、他者への優しさの大切さをはじめて知ることができるからです。皮肉なことに、この世界では、悲しみだけが人を真に優しくしてくれるものだと知っているのです。

(会報300号より)

 


久保田穣君追悼                  梁瀬和男


 久保田君の死去は旧臘の二十一日で、私は二十二日の早朝、知人からの電話で知った。私はその報を受けた時、久保田君の生涯は、詩に対する限りない傾注であったことを痛感した。桐生高等学校在学中に友人たちと謄写版刷りの詩誌『リミット』を創刊し、群馬大学教育学部へ進むと、詩の同好の学生たちと『ルインズ』を刊行した。このような若い時代の文学への興味・関心は、青春期の経過と共におとろえてゆく例を、私はしばしば見て来ているが、久保田君の場合は全く逆で、詩の視野は拡大して題材は強固になり、それを支える彼の詩論もその領域を拡大して行った。
 久保田君の詩業の第一は、言うまでもなく「詩作」である。それは多くの詩集として残されているが、詩集には『小鳥の死』・『日常』・『風樹』・『蝉の記憶』・『眼の列』などがあり、これらに続いて刊行された『サン・ジュアンの木』は第三十五回の壺井繁治賞を受賞している。彼の詩の変容は簡単に辿ることは出来ないが、大学時代の若々しい抒情は、詩作の進展と共に現実への鋭い視線を加え、人間の存在と現実を主題とするようになった。これ
は久保田君の体験による思想の深化にもとづく結果で、その成果が壺井賞に結実したと言っても過言ではあるまい。
 次にあげられるのは、群馬に関係のある詩人たちへの、詳細な評伝である。代表的な著作として、二つをあげておく。その二著作は『栗生楽泉園の詩人たち』および『群馬の夭折の詩人たち』だが、久保田君は二つの著作に取り上げた詩人が、かえりみられない事に強い疑念を持ったのであろう。右の二著により、群馬の詩の遺産にあらたな照射が与えられたことになり、この著作により認識をあらたにした人も少くないと思う。「楽泉園」の書は、第十三回の小野十三郎賞を受賞している。その他詩人に関する研究・評伝として東宮七男、木村次郎、黒田三郎氏らに関する多
くの論考があるが、研究は精緻を極め、論調には詩人への敬愛が感じられるのである。
 以上の如くみずからの詩的営為を充実させる一方で、群馬詩人クラブの代表として運営に力を注ぎ、世界詩人会議が前橋で開催された折には萩原朔太郎に関する分科会の運営について関係者と協議を重ね成功に導いた。
 また詩誌『軌道』の編集者を長期にわたってつとめ、種々の企画を誌面に実現させたのも、久保田君独自の立案であった。『軌道』は、岡田刀水士氏によって創刊された詩誌であったが、久保田君は同誌の四十号頃から終刊の百六十一号まで編集を受け持った。
 限られた紙幅で彼の足跡は語りつくせないが、一途に「詩」を求め続けた彼の生涯には敬眼するのみである。冥福を祈り、在りし日をしのんでいる。

(会報291号より)


在りし日の宮崎清さんを偲んで  田口三舩


 2014年9月27日、炎樹同人・群馬詩人クラブ会員・高崎現代詩の会会員の宮崎清さんが亡くなられた。享年87歳。
 宮崎さんは、1927年現在の高崎市下之城町で生まれ、その後終戦を挟んで長らく故郷を離れていたが、1990年代初頭高崎市に戻った。その間の宮崎さんについてはお付き合いの機会も殆どなかったが、「赤旗」「夜
明け」「民主文学」「炎樹」等を通じて幅広く活発に文学活動を展開していたことは、すでに広く知られていたところである。
 私の知る限り、宮崎さんはどんなことがあっても愚痴や苦情を軽々しく口にする人ではなかった。社会の不正や矛盾に対しては、真っ向から立ち向かう正義感と強さを持ちながら、それが自身の中で醸成されるのをきちんと待てる人だったように思う。
 宮崎さんの思想信条に対する確固たる姿勢は、ここでくどく申し上げるまでもないことだが、その人間味あふれる温かさと共に忘れることができない仲間に対する寛容さを示す貴重なエピソードがある。
 大分前のことではあるが、群馬詩人クラブの年刊詩集で、あろうことか宮崎さんの作品が途中で切れてしまい、半分しか掲載されなかったことがある。その時の宮崎さんのひと言「係の人が努力してくれているのが分かっているだけにとても残念。でも僕の作品でよかったのかも。そう思ってるんです」
 高崎現代詩の会の隔月ごとの例会にはいつも進んで出席されていたが、端的で的確なその発言内容は、聞く人の感性を揺さぶり、納得させるのに十分であつた。言葉に対するこだわりはもちろんだが、作者の心情に思いを寄せた解釈にも独特の味わいがあった。宮崎さんの意見をぜひ聞いてみたいと、合評会を楽しみにしていた会員もいた。
 宮崎さんの幅広い活動については、浅学にして詳細に語るだけのものを持ち合わせてはいない。しかし、高崎現代詩の会の仲間として、そしてまた人生・詩の先輩として、詩に対する真摯な姿勢と多岐にわたる体験によって培われたであろう識見、そして生きることの重さと深く温かい人間愛、または人と人との絆の大切さ等々、貴重なことをたくさん教えていただいた。明るく穏やかな表情と、小声ではあるが理路整然と意見を吐露するその
話しぶりが、今私の脳裏に鮮やかによみがえってくる。
 あの柔和な眼差しの奥には、あるいは私などには計り知れないもっと深いものがあったに違いないが、幽明境を異にする今となっては、残された作品を通じてしかそれを求める手立てはない。手元にある作品から、その人間性と強靭な詩魂を偲ばせていただこう。
「/カゴに乗る人 かつぐひと/そのまた草鞋をつくるひと/たしかに ぼくはかついだ/ つくりもした/カゴには/乗らなかった//」社会の不条理に立ち向かう姿勢が、その息吹きと共に伝わってくる。(「兵隊の位」)
 市役所の窓口での一人の市民の抗弁と担当者とのやりとり、それを取り巻く雰囲気から、一見離ればなれの出来事を中心に、遠い昔の空襲の恐ろしさを身近なものとして、見事に描き出しているその力量は、並大抵のものではないだろう。(「市役所の窓口で」)
 奇想天外な爆弾気球が、故郷で作られていたのを知ったのは、戦後しばらく経ってからだったという。当時女学生が動員で作業に加わっていた旧高崎高等女学校に立っている樟の木の瘤をそっと撫で、悲劇を歴史に埋没させまいとする思いと人間愛、そして「/しかしぼくは いまだに敗戦の夏の寂寞を克服出来ていない//」この最後の一行が、強烈に胸に響いてくる。(「樟の木の瘤」)
 今はただご冥福をお祈りするばかりである。

(会報290号より)


詩に託したもの
 追悼― くぼたこうじさん    富沢 智


 くぼたこうじさんは、『榛名団』創刊号(2011年11月発行)から、不慮の死を遂げる前の11号(2014年6月発行)まで、欠かさず参加してくれていた。8月6日死去。享年76歳。おおよその経過は他所に書いた。ここでは、若千の補足と、主に詩作品に寄り添って書いてみたい。
 9月21日付けの『上毛詩壇』(曽根ヨシ選)に、くぼたさんについての作品と、評が載っていると教えてくれたのは、Yさんという、いまは終了した『まほろば詩作教室』の生徒さんだった。
 この教室は、村の生涯学習講座の一環としてスタートし、その後自主講座として、2007年10月には、6周年記念詩集『ぶりきの風船』を出していた。メンバー5人は全て女性で、その中にくぼたさんと同期の方の奥様がいた。そんな縁で、くぼたさんは教室の見学に訪れたのだった。このときが初対面だったのか、その前に挨拶を済ませていた
のだったか、記憶は定かではない。窪田幸司小詩集『夕焼けの空』の発行日は、2006年4月。久保田穣さんに師事し、詩の社会性を見据えていたくばたさんにとって、教室の内容は物足りなく映ったのかも知れない。また、地域の文化教室特有の雰囲気もあって、くぼたさんは、教室には入らず、その後、足繁く「まほろば」へ通って来るようになった。
 くぼたさんを紹介してくれたKさんの旦那さんとは、県警の同期ということで、元警察官としてのくぼたさんの印象が強かったが、この間の取材で、実際は様々な職業を経験した苦労人であることが分かった。
 『上毛詩壇』の投稿作品は「一枚のハガキ」中竹綾夫。/群馬箕輪局/消印は(昭和)二十九年四月二十日/住所が/群馬県立経営伝習農場となっている/と、始まる。ここには十七歳の窪田幸司さんがいた。現県立農林大学校、私などの年代では農民道場と呼ばれ、相馬ケ原に隣接した隣町の親しい学校である。ここを振り出しに、自衛官、警察官、民間会社営業マン、喫茶店経営、警備会社経営と送った人生は、同じように職歴を重ねてきた私にとっては、納得し、共感を覚える生き方だ。
 くぼたさんの作品に寄り添うことにする。『榛名団』に寄せた作品をテーマ別に分けると、創刊号の「沖縄の丘よ」を皮切りに、沖縄をテーマにした作品が最多の五篇(1、6、8、10、11号)。次いで、「警戒地域拡大」
(2、7、9号)など、3・11東日本大震災の原発事故関連が三篇。「ボタ山よ」(3号)は、北九州・田川の炭坑地帯。「赤城大沼用水路」(5号)は、生まれ育った富士見地区。そして、「梅雨時の溜め息」(4号)は、最後の
仕事となった警備会社の一場面。「はじめての病室」(4号)は、自身の持病についてだ。

 この出稿傾向をみると、くぼたさんが、詩の社会的な意義に思いを寄せていたことが分かる。そして、それはイデオロギー的な立場というより、青年前期のピュアな社会正義的な志によっているのではないかと思われる。そう、思い至ったとき、自衛隊員、警察官という経歴と、詩人、くぼたこうじさんの存在は矛盾しなくなった。
 沖縄は、くぼたさんにとっては、嫁いだ娘さんの生活の場として、北九州・田川は奥さんの実家として、いずれも人生の途上に図らずも遭遇した地であって、積極的なテーマとして現れた地ではない。
 そのうえで、「詩になにができるか」と、間わなければならない。くぼたさん、あなたの追悼文はこれが三本目です。喫茶店『アン』に由来する「雷神橋」、遺稿から「まだ病院」を紹介しました。そして、ここでは「梅雨時の溜め息」の一連を紹介して、お別れします。さようなら。
/梅雨の時期/雨降りの日がつづくと/屋外に/仕事の場を求めている会社にとっては/現場は休みになり/会社の売り上げはゼロになる……/。

(会報289号より)