第五一回群馬県文学賞 受賞記念講演について
                     伊藤信一


 群馬県文学賞受賞者による記念講演が、新規企画として第五一回(平成二五年度)から、受賞作品等のミニ展示とともに行われることになりました。初回に当たる今年度は、平成二六年三月六日(木)に群馬県立土屋文明記念文学館において、五部門の講演がありました。以下講演会のようすと講演内容の一部を、講演した立場から書かせていただきます。
 当日は、私の個人的な事情で、開始予定時間の13時30分には行けなくて、事前に講演順を最後にしていただくようお願いしました。各部門ごとに選考委月の講評が5分程度あり、その後、25分を目安に話をするという進行計画でした。私が会場に到着したのは15時頃で、短歌、俳句部門が終わって、児童文学部門が始まるというところでした。平日ですが、座席はかなり埋まっていました。
 小説部門の後、16時頃から詩部門が始まりました。選考委月の一人である川島完さんは、ドビュッシーの作品とそれ以前の音楽を対照させて現代詩の特質を論じ、その文脈の中で私の作品の傾向を説明してくださいました。
 私の演題は「詩の周辺あるいは詩の成立」。受賞作品中の三編を含んで、これまでに書いた詩、計11編を印刷し、事前に受付で配布していただいてありました。与えられた時間は、あいさつというには長く、構成された深みのある講演の時間としては短いと思ったので、原稿を作らず、ミニアンソロジーを手がかりに、参加者の反応を見ながらその場の成り行きで話す心積もりで臨みました。
 第一詩集の「梅の朝」、第二詩集の「ははのひに」という二編の短詩に触れて、一見単純な構造のように見えながら読者にとってはそうではないのではないか、それに対して受賞作の短詩「学校の廊下」は言葉は複雑でも単純な構造であり感じたままたれ流した作品で、作者としては今読むと、作品として成立していると言い切れない気がするという話。
 ミニ展示でパネルにしていただいた「島の地図」。「寺山修司」を詩に登場させるのは不必要という議論も「東国」合評会ではあったが、これはアイコンで、マウスをあててここをクリックする読者を期待している。他の部分は不気味なくらい平易であり、引っかかりがないと少なくとも読者としての自分は面白がれない。もっともこの場合成功しているかどうかは微妙だ、という話。
「わからない」ことは価値ではない。が、誰にでもわかりやすいということに価値を置く文学観には抵抗がある。ピカソの絵は誰にもわかるのか?耳の聞こえない作曲家という物語にすがって無理矢理「わかった」=価値があると思いたがらなくていいのではないか。間口の狭いものを否定しないスタンスが、文学、文化を考える上で重要なのではないか、といった話など。
 とりとめもなく話し、時間を見計らって唐突に終わりにしました。企画としては一年で
は終了しないでしょう。次年度の方の参考になれば幸いです。

(会報287号より)

 

作品は、以下のリンク先に。