平成27年度 総会報告

 

 平成27年11月23日(月・祝)、前橋テルサにおいて総会及び秋の詩祭が開催された。

 総会は、当日欠席の平野秀哉代表幹事に代わって志村喜代子幹事からの挨拶の後、田口三舩氏が議長に選出され、議事に入った。

 1号議案27年度事業報告は、高田芙美幹事より、会報発行、現代詩作品展、年刊詩集の発行等の事業の報告がされた。

 2号議案会計報告は狩野務幹事よりなされ、監査報告を経て、拍手で承認された。

 続いて、3号議案の28年度事業計画案及び4号議案の28年度予算案について、井上敬二新幹事、中澤睦士新幹事より、それぞれ説明・提案がされた。

 その後の質疑・応答の中で、樋口氏より、「会員の高齢化が進んでいる現状を考えると、幹事10名を揃えるのは大変ではないか、また会報の発行回数を減らし、内容を充実する方向で考えていってもよいのではないか」との問題提起、提案がなされた。会員の拡大も含め、新幹事を中心に取り組むべき課題であることが確認され、総会が終了した。

 引き続き行われた「秋の詩祭」では、北畑光男氏による講演が行われた。

 講演終了後、前橋テルサ1階オルヴィエターナに会場を移し、懇親会が行われた。多数の出席があり盛会のうちに幕を閉じた。

(会報285号より)

 

北畑光男氏講演 「朔太郎から村上昭夫まで」

 

 群馬詩人クラブの第28回「秋の詩祭」が、平成27年度総会終了後開催されました。今年度は、埼玉県在住の詩人、日本現代詩人会前理事長の北畑光男氏をお迎えし、「朔太郎から村上昭夫まで」という演題で講演していただきました。氏の生い立ちから詩との出会い、詩人村上昭夫に受けた影響、萩原朔太郎や群馬との接点、自作の書き換えなどについて、大変興味深いお話を伺うことができました。以下はその概要です。

 

(1)自分の詩の歩み

 

 私は岩手県下閉伊郡岩泉町の出身で、海のない山奥で過ごしていました。ランプの生活、枯葉がクッションとなった林、下駄スケート、氷結した川に釘で穴をあけて飲んだ水のことなどが記憶に残っています。

 父が勤めていた炭鉱が廃坑となり、私たち家族はあてもなく盛岡に出てきて、初めて電気のある生活を経験しました。父は鰹節の行商をしましたが体をこわし、母が神奈川に出稼ぎに行っていました。生活は苦しく、私も子どもながら新聞配りや豆腐売りをしていました。この頃、「疎外」という言葉を知り、「自分を見つめる」ということについて考え始めました。

 小学校卒業後、盛岡農業高校へ進学しました。さらに勉強がしたくて、上京して新聞店に住み込み働きながら予備校に行き、翌年北海道の酪農学園大学に入学しました。

 札幌でも新聞店に住み込んで新聞配達をしながら大学に通いました。窓の外の原始林を吹いてくる風が心を揺さぶり、何かを訴えかけてくるように感じた大学生活でした。

 詩は当時大変なブームで、本屋には詩のコーナーが必ずありました。最初に触れたのは郷里の詩人ということもあり石川啄木でした。高校生の頃から啄木は好きでしたが、読んでいくうちに、「自分は許される」という意識がある啄木のようにはできないと感じていました。

 一方、宮沢賢治は、言葉が光を帯びている感じがしました。聞き慣れた方言でもあり、詩は立体的でした。「農民芸術概論」は、農民にとって過酷な岩手という土地柄をよく知る、夢多き青年賢治の思いが込められたもので、農民には出てこない発想だと思いました。

 また、萩原朔太郎の詩に出会い、人間の内面を問い詰めたところから書いている、ここに本当の詩があると思い、共感し、夢中で読みました。資料にある「猫」は、朔太郎の作風に似ています。こんな作品を書いていた時代もありました。他に、蔵原伸二郞や村野四郎の詩にひかれていました。

 

(2)村上昭夫のこと 

 

 そんな頃、本屋でふと手に取ったのが村上昭夫の詩集『動物哀歌』でした。言葉が光っていて、後にも先にもないくらい私の心を激しく揺さぶりました。

 村上昭夫は昭和2年生まれ、昭和43年に41歳で亡くなっています。岩手中学在籍時に学徒動員、直後満州に渡り満州国官吏となってまもなく終戦を迎えます。ソ連軍に捕まり拷問や強制労働を体験し、日本兵のおびただしい死体を見て、戦争の悲惨さを実感します。20歳未満だったため解放され、昭和21年秋に帰国しました。

 昭和22年1月、昭夫は盛岡郵便局に事務員として採用されます。職場の労働組合の機関誌の編集長をして、そこに小説や詩を発表していました。

 ところが、昭和25年23歳の春に結核を発病します。サナトリウム入院後は盛んに俳句を作り、また同じ病院に入院してきた詩人高橋昭八郎に、ノートに書きためていた詩を見せています。私も残っていたノートを見る機会がありましたが、まだ作品は稚拙なものでした。昭八郎が紹介した詩の中で、昭夫は田村隆一、高橋新吉に興味を持ったようです。

 資料に載せた「五億年」「黒いこおろぎ」には、新吉からの影響が見て取れます。言いたいことを直裁に差し出す新吉に対し、知的な感性による、骨格を持った作品になっています。永遠を自分の中に取り込もうとする、闘病中の昭夫の姿がここにあります。闘いの中で見つけた「世界はまだできあがらない/黒いこおろぎなのだ」という認識は、日常を超えた心霊的なものです。

 昭夫の作品には、幻視、幻聴のようなものが書かれています。それは人間が生物として本来持っているものかも知れません。科学技術では解決しえないものかもしれません。『遠野物語』や東日本大震災の津波被災者の手記に出てくる、心霊的な「心の現実」は、書き残されたことで受け継がれていきます。ユングは、芸術家とは個人をはるかに超えて人類全体の精神と魂を語るものであり、それを語る人こそ本物の詩人であると言っています。満州体験や闘病体験をもとに、まだ名付けがたい深淵を作品にした村上昭夫の「発見」がここにあります。

 彼の日記の最後には「村上昭夫がんばった」とありました。詩集『動物哀歌』は、土井晩翠賞、H氏賞を受賞しましたが、贈呈式に本人の姿はありませんでした。

 

(3)自分の詩について 

 

 私は上里町に住んでいますので、川を越えれば群馬県です。群馬詩人クラブ会報に載せた「八月の広瀬川」など、群馬に関する作品をいくつも書いています。同じく会報に載せた「指紋の銀河」は、私が群大病院に入院していた時に隣のベッドにいた人のことを書いたものです。腕を切断する前日に病院内でギターコンサートをした人です。

 最後に、私が作品をどんなふうに変化させていくかをお話しします。会報に載せた「足うらのやみ」という作品が最初に書いたものです。小雨の降る中、傘をさしライトをつけて農道を歩いていたら、こおろぎが何かわびるかのようにして、死んだ仲間の体液を吸っていました。大岡昇平の小説の影響なのか、先日見た特攻隊を扱った映画のせいなのか、戦争のことを思いながら書いていったら言葉が削られてきて、本日の資料にある「挽歌」になってしまいました。

 今日は、自分が詩をどう読み、どう書いてきたかを話させていただきました。これまでに詩集を8冊出しています。

(文責 伊藤信一)(会報285号より)

  

今年の総会の模様をアップしました。


平成27年度 総会の様子

新幹事の皆さんです。会長は磯貝優子さんに決まりました。

平成27年秋の詩祭 講演会の様子 講師は北畑光男氏です。

平成27年度秋の詩祭 懇親会の様子


 

以下は昨年度の講演資料です。

 

 総会報告    平野秀哉

 

 平成26年度の総会が平成26年11月23日(日・祝)に前橋テルサの4階第3研修室で行われた。司会は群馬詩人クラブ幹事の志村喜代子が務め、議長に前代表幹事の井上英明さんが選ばれた。
 代表幹事の平野秀哉の挨拶の中で、詩を書く人が高齢化しているが、全国津々浦々で詩を書くことをよろこびとしている人々がたくさんいる。詩を書き続けましょうと詩を書くことの大切さを述べた。
 総会の出席者は41名、委任状42名で総会は無事成立。
 第一号議案平成26年度事業報告が幹事の高田芙美よりなされ、第二号議案会計報告が幹事の狩野務よりあり、監査報告が監査の中澤・富沢両氏によって行われ無事終了した。

 第三号議案平成27年度事業計画案と第四号議案平成27年度予算案が審議され質疑応答があり承認された。

(会報290号より)

 

 三浦雅士氏講演 「今 詩は」より

 

 第二十七回「秋の詩祭」が、平成二十六年度総会終了後開催されました。
 今回は、文芸評論家で萩原朔太郎研究会会長の三浦雅士氏を迎え「今 詩は」と題して講演していただきました。
 この報告は、長時間に及ぶ講演のうち演題でもある「今 詩は」という内容と思われる講演前段部分についてまとめたものとなっております。
 掲載スペースのこともあり、かなりの部分を省略しておりますが、講演内容が十分反映したものとなるよう努めたところであります。(三枝 治)


 「今 詩は」ということは「詩の現在」ということですが、これは難しい問題です。
 アインシュタインは晩年、カルナップという哲学者に、「現在」ということが分からなくなったと語っています。カルナップは論理実証主義の祖ですから「現在」は自明だと思っている。だが、アインシュタインはその「現在」が分からなくなったというわけです。
 アインシュタインの相対性理論では、時空が一元化される方向にあるわけですから、これは当然といえば当然です。それから半世紀、いまでは時空は重力によって形成される、重力が強くなれば時空は歪むと考えられている。つまり、現代物理学の最先端の考え方では人間は文字通り幻想の時空に生きているということになるわけです。
 これが詩にとって重要なのは「現在」という問題が言語の問題だからです。私は、世界は文字通り言語によってできていると考えていますが、少なくとも人間的世界が言語によってできていることは明らかです。過去も未来も現在も言語によってできている。しかし、いわゆる過去・現在・未来を支えている現在というのは、それとは違う次元に属しているのではないか。いわば超越論的な次元に属しているのではないか。アインシュタインの問いを文学の問題に移せばそうなる。
 現在とは何かということは最晩年の漱石も書いています。漱石がこの問題を生涯考え続けたことはロンドン留学中の文学論からも明らかですが、でも、いわゆる修善寺吐血で九死に一生を得てからはいつそう根本的な問題になったようです。現在とは何かという問題は、考え始めると神経症になってしまうような問題です。それをいわば面白おかしく書いたのが「吾輩は猫である」ですが、名作である所以はそれが文学の根本的な問題だということを的確に感じさせるからです。
 現在とはさまざまな次元で言語の問題ですから、現在への問いは言語の専門家である詩人につねに突きつけられています。現代文学においては、それはまず歴史的現在への問いとして現われてきました。漱石やアインシュタインが直面したのはいっそう根源的な問いですが、歴史的現在への問いもそこに含まれる。ところが歴史もまた言語の問題、文学の問題なのです。歴史的現在はしたがって二重に言語の問題なのだということになる。
 この問いはしかし詩壇の現在においては忘れられています。詩壇がいまや支離滅裂であるのはそのせいです。しかしいまから三十年前まではそうではなかった。当時の詩壇にはある種の地図、詩の歴史的現在を考えさせる地図があった。その地図を提供したのは吉本隆明です。吉本の戦争責任論が重大だったのはそれが歴史的現在への問いだったからだ。戦争責任論の土俵を作ったのは鮎川信夫ですが、それを遂行したのは吉本でした。
 吉本がそれを遂行できたのはマルクス主義の立場に立ったからです。マルクス主義は歴史的現在に対する解答として世界的に大きな影響力を持ちましたが、それはマルクス主義がキリスト教の最終的形態だったからです。吉本がキリストや親鸞に強い関心を示したのは偶然ではない。歴史的現在への問いはキリスト教的なものです。
 吉本に対して正反対の立場に立って闘ったのが大岡信です。彼の処女詩集は「記憶と現在」ですが、最初から記憶つまり歴史と「現在」は言語の問題だと直観していたのです。この吉本と大岡を両極とする図式が一九五〇年代末から八〇年代初頭まで続く。彼らが結果的に詩壇、文壇につねに地図を提供し続けたのです。地図はそれがないと先に進めないわけですから重要です。むろん正しい地図でなくていいのです。むしろ客観的に正しい地図というのはかえっておかしい。なぜなら状況つまり正しさは刻々変わるからです。これは本質的な問題で、歴史は文学である、すなわち解釈の対象であるということと同じです。現在という謎に直結しているのです。
 だが、八〇年後半以降は地図がなくなってしまった。なぜか。まず、吉本、大岡に匹敵する詩人、批評家がいなくなってしまったからだ。いま読み返してみても二人は相当優秀です。朔太郎、賢治、中也が天才的であったのと同じように天才的だ。だが、それだけではない。問題の難しさが露呈してしまったからなのです。そのことは、八〇年代以降、吉本が本質論に向かい、大岡が古典論に向かってしまったことからも明らかです。現在への問い、歴史への問いが根源的だったためにそうなってしまったのです。
 歴史的現在への問いは直線的な時間のうえに構想されます。それが近代の文学史の常套である。二人は、結果的にこの構想が成り立たないことを証明してしまった。文学史はまったく新しい構想のもとになされなければならないのではないか。これまで直線的な時間のうえに構想されてきたのとは違った、垂直な、いわば永遠の現在のような空間のうえに構想されるべきなのではないか 少なくとも時間的な地図、空間的な地図のその組み合わせのうちに構想されるべきなのではないか。二人が結果的に向き合ったのはそういう問題だったのですが、それがそのままのかたちで
詩の現在、文学の現在に残されているのです。これは最初に述べたアインシュタインの問いと重なっていると私は思います。
 これが、「今 詩は」というかたちで提起される課題の概要です。新たな朔太郎論も、中也論も、また吉本論、大岡論も、この問題に応えるかたちでしか成立しえない。いわばまったく新しい地図とともにしか成立しえない。それが詩の現在なのだと思います。


(注)本文は、講演内容に基づき、三浦氏により加筆修正されています。


(会報290号より)



平成26年度秋の詩祭、懇親会の様子をアップしました。



 田中武氏講演 「詩のはじめ、詩の事情」より

 

 昨年11月23日、前橋テルサで第26回群馬詩人クラブ秋の詩祭が、新潟県新発田市在住の詩人田中武氏を迎えて行われ、「詩のはじめ、詩の事情」と題し、自らの作品とその成立の事情について話されました。
「茅原記」「旅程のない場所」「驟雨の食卓」「雑草屋」という四冊の詩集から選ばれた六篇の作品は、氏にとっていくつかの始まりを意味する重要な作品であり、その一つ一つと、氏の詩活動とを関連付けた興味深い内容でした。
 講演すべての内容をお伝えしたいところですが、紙数も限られていることから、特に興味深い、「詩のはじめ」でもある、冒頭の「物語の始まり」 の部分をお伝えしたいと思います。

(文責 提箸 宏)
 【私の詩の書き始め】
 今回の演題は「詩のはじめ、詩の事情」ということですが、まず自分の詩の書き始めのころを振り返って、それから六篇の詩の作品化した内部事情といいますか、裏話を交えてお話しさせていただきたいと思います。
 私の詩的出地は「ロシナンテ」という同人誌にあります。「ロシナンテ」というのは、当時昭和20年後半、牧野書店という出版社から出されていました「文章倶楽部」という投稿文芸誌の、詩の欄でよく入選している人たちが寄り集まって結成したグループです。ですから、私の出地は「ロシナンテ」から遡って「文章倶楽部」だと言っていいのかもしれません。この「文章倶楽部」の編集長をしていたのが、今の「現代詩手帖」の創業者である小田久郎さんだったわけです。「文章倶楽部」が「現代詩手帖」 の前身だと言われているゆえんです。
 私が投稿を始めたころ、「文章倶楽部」の詩の欄が、他のジャンルの欄から突出して活気づいていました。何しろ選者が、「二十億光年の孤独」で詩壇にデビューしたばかりの谷川俊太郎がいて、もう一方の相手に、当時の詩壇の中心的存在だった「荒地」グループの鮎川信夫がいて、その合評は新鮮なキャスティングでした。自分の詩の始めについて話しているんですけれど、ここまでは私の詩の履歴書の表向きに書かれているようなことで、ここから先が、私の経歴の底に沈んでいる見えない詩の始めということになりますが、それをちょっとお話ししてみたいと思います。

 

 【「物語のはじまり」について】

 (作品「物語のはじまり」の朗読あり)

 自分の書き始まりを語るにはちょうどぴったりの詩なんです。私は小学校、中学校、学校の成績が良くなかったんです。四つ年上の兄がいまして、家族の中では頭がよくて、あの時代に慶応大学を出たのですから…。それにくらべて、私は末っ子ですから、まあこの末っ子の出来の悪さ。でもまあちょうど良かった。うちの家業である理髪業をやらせよ
うということになりました。それにしても、この子供はやけに子供っぽい。年齢よりも幼なげで、どうも親は中学を卒業してすぐに、世間の風に当てるのがちょっとかわいそうに思ったんじゃないでしょうか。それで、店に見習いに出るまでに三か月の猶予をくれました。その三か月が私の詩の始まりであったと今にして思います。
 三ケ月間、まるで夏休みの宿題を全くしないで、その先に何があるかということを意識の底に押し込んで、何気なさそうにして日を過ごしている。そういうモラトリアムの感じというものは独特のものです。私はそのころから、詩のようなものをノートにつけ始めました。いたたまれないような気分を何とか紛らわせようとしていたようです。そのノート
のことですけれども、どんな筆記用具を使ったかといえば、ガラスペンで書いたのですが、インクは木の実の汁を使いました。ヒサカキという椿科の木の実なんだそうですが、しぼりますとちょうどブルーブラックのインクみたいな汁になりまして、それをペンにつけて書きました。なぜそんなことをやったかと言われますと子供っぽいセンチメンタルな気分だと思いますが、少なくなっていく猶予の時間から何とか逃れようとして、そういう子供っぽい行為にしがみついていたのではないでしょうか。そのノートも何十年か経ちますともうまっ茶色になって文字が消えてしまって、今は残っていません。
 この詩の中の少年は、納屋を相手にピンポンをしています。あれは本当のことなんです。納屋のトタン屋根にピンポン玉を打ちあげて、ゴロゴロゴロと落ちてくるのをもう一度また、ラケットで打ち上げるというそんなことを猶予の期間の間、人と口もきかず、日がな一日やっていたようです。
 それで三か月の猶予の期間が終わりました。裏口の戸が開いて、親父が出てきました。納屋の前にいる私に、ひらひらひらっと手を振り、「おいおい、時間だぞ」という、あの声はまだ耳に残っています。それが、私の、子供の最後の日でした。
 ところで、ノートのことに戻りますが、そのノートを密かに私の兄が見たらしいんです。同じ部屋に寝泊まりしていたもんですから。ある日、兄貴の独特の角ばった文字がびっしり書かれた便箋が何枚か、ノートに挟まっていました。最初の文字が目に入りました。「弟よ、許しておくれ。お前を全くダメな奴だと思っていたけれど、おまえはこんな宝を胸に抱いていたということを今まで知らなかった不明を許せ」というようなことが書いてありました。兄貴も若かったんでしょう、今考え
ると照れ臭くて読めないようなことが書いてありました。最後に、「お前はこの詩の世界を頑張って歩いて行け。おれも負けずに、これから短歌を始めようと思う。兄弟で競い合って文学の道を歩いて行こう」なんてことが書いてありました。あの時の驚愕と羞恥心は忘れられません。この二番目の兄は47歳で早死にしたのですけれど、あの手紙の一件は、それ以来一度として話したことはありません。兄貴も照れくさかったんだと思います。

 しかし、人の視線というものは不思議な作用をするものでして、それ以来、私がノートをつける行為の意味が少し変わりました。それまで考えていなかった、他人が見るかもしれない、他人に見られるという意識が書くものを微妙に変えていきました。他人に見られてもいいという気分が起こり、それが数年後の「文章倶楽部」への投稿へと繋がって行っ
たような気がします。
 兄貴がやったことは、比喩的に考えますと、隠されていた言葉の塊に視線を当てて、詩の卵を活性化させる引き金を引いたということになるんでしょうか。
(作品「物語の始まり」については、会報284号をご参照ください。)

(会報285号より)