個人誌「ぎぎ」     関口将夫

 

 詩誌名を「ぎぎ」としたのは、音とか声を文字に置き換えたものにしたいと思っていた。出来ればオノマトペを使ったことばがいいと思っていた時に、少年の頃出会った懐かしい魚の鳴き声をおもい出した。ぎゅうたと言うナマズを一回り小さくしたような、ナマズにそっくりな魚が、郷土の川、鏑川や鳥川などにいた。掴まえると〈ぎぎ〉と鳴くのだ。エラの近くに鋭い毒針を持っていて、この針に刺されると一日中手がしびれている。海に棲んでいるゴンズイと姿形も毒針を持っているのも似ているので同じ仲間なのだろう。このぎゅうたは学名「ギバチ」と言うのだがもともと清流に棲む魚なので、今はほとんど見ることがないので絶滅危惧種になっているのだろう。
 個人詩誌は、乱暴な言い方をすれば、この魚のように、一個人の声の出しかたみたいなところがある。関口将夫と言う、自分流の呼吸のしかた、声のとどかせかた。その声をことばに置き換える営為だと思っている。空海の「声字実相義」のことばを借りれば、「声」もまた「文字」にはかならない。〈世界の万物は呼吸している。その呼吸が声になり、それが凝(こごも)って文字になる〉。
 個人誌は同人誌より、読み手と直結する面積が大きい。編集も企画も即決できる。自由なひろがりを持っている。そのぶん自分で発した声は、そのまま自分にもどってくる。だから、いろいろな試みも出来る。私の場合、物作りが好きなので、製本は自分でやつている。自由な工夫と遊びが出来るので楽しい。ようやく十号を出したところだが、次号が読みたいと思われるような個人誌を夢みている。時代と言う巨大な手に掴まえられる時、ぎゅうたのように〈ぎぎ〉と自分の声を発することが出来ればと思っている。
 題字を俳人で書家の山本素竹氏にお願いしたのも、氏も独自な呼吸と声をベースに生きている方だったのでお願いをした。

(会報300号より)