群馬「翔べ翔べ暮鳥会」と暮鳥の関係
                     佐鳥吉美

 

 先日、五月二日、山村暮鳥の二女、圡田千草さんが亡くなったので旧群馬町関係者で水戸の聖ステバノ教会での告別式に参列して来た。享年九十六才であった。
 これで水戸教会への参列は四回日である。暮鳥夫人冨士さん、昭和五十四年二月十八日参列、暮鳥長女玲子さん、暮鳥会水戸会長告別式などである。
 一介の詩人もどきの私が、大正十三年(四十一才)で早世した山村暮鳥との接点は。
 暮鳥は旧群馬郡棟高に生まれた。明治三十二年、十六才で堤ヶ岡小学校の臨時教員として教職につく。その時の生徒に小山茂市がいた。茂市はその後教職につく。大正四年「聖三稜玻璃」出版にあたっては「小生は今の文壇乃至思想のためにばくれつだんを製造している…略…此の詩集、今世紀にはあまりにも早き出現である…」と茂市に書簡を送っている。又暮鳥は小学校の同僚だった大沢半作に経済的援助の手紙などを送っているから茂市宛にもそんな事もあったのだろうか?
 暮鳥死後茂市は暮鳥エッセイや暮鳥伝など文章を書いていたが町関係の詩人を集めた「翔べ翔べ暮鳥会」を結成する。その内には茂市教職時代の女子校生徒だった砂長志げるが居た。茂市は暮鳥詩を介して交友関係を深め砂長志げる宅に宿泊したりと八十才を越えた茂市に、実の娘も心配したとの話も聞くが
詩人同志の交友であったのだろう。
 暮鳥会は昭和四十八年に発足、しかし「翔べ翔べ暮鳥」一号発刊ならずして茂市は死去、享年八十一才であった。
 昭和五十年、水戸より暮鳥夫人圡田冨士さんが群馬へ来訪、講演、町文化祭参観、榛名町白岩の茂市の墓参、当時町に一軒あった宿に宿泊した。
 五十一年、同人達は水戸や大洗を訪れた。大洗の暮鳥碑「ある時」を見学、その近くのホテルに宿泊、暮鳥夫人宅訪間、以後年に二度くらい、暮鳥墓碑、墓参、各地の詩碑除幕式に参列、福島県いわき市に建てられた「おうい雲よ」除幕式に参列したりした。
 又、これ等が縁で大洗と群馬町は文化友好の町として、姉妹都市が誕生。小学生から一般の人々まで、文化祭の出展交流から行政役の関係者、経済人など交流が行われている。
 「翔べ翔べ暮鳥」同人誌の発行は元より、暮鳥全集(筑摩書房)全四巻発刊に関係したり、群馬県教育委員会制作、暮鳥映画「深き淵より」に対してテレビ出演をしたり、「翔べ翔べ暮鳥」二十周年記念の詩集の発刊、生誕百年記念の写真集の出版等が行われて来た。
 今年は暮鳥生誕百三十周年の行事も行われる予定になっていて準備が進んでいる。これからは暮鳥の孫や曾孫との交流を深めて行きたいと思っている。

(会報288号より)