どこまで飛ばす? ことばの飛距離   房内はるみ

 

  母         吉田 一穂

 

  うる    デスタンス
あゝ麗はしい距離、
つねに遠のいてゆく風景……

 

悲しみの彼方、母への、

さぐ        ピアニシモ

捜り打つ夜半の最弱音。

 

  天気        西脇順三郎

 

 くつがえ

(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日


 この二つの詩を読んだ時、私は胸の中にす― っと冷たく清らかな水が流れていくような感動を覚えた。詩の性格から言えばモダニズムに属すると思うけれども、何々ニズムという言葉で括るのは、あまり好きではない。ただ詩作品そのものを味わいたい。
 まず吉田一穂の「母」から見てみよう。この詩は遠く離れた母を想う詩である。ひとり淋しい夜、母への想いはピアニッシモのように静かに流れていく。と言う意味だろうか。でもそんな説明はいらない。ただこの美しい四行の詩を心地よい音楽を聴くような気持ちで酔いしれればよいと思う。詩とは説明ではない。それはことばの「ひびき」であり、「ひかり」のようなものが大切であると思う。
 次に西脇順二郎の「天気」。この詩には天気という言葉は出てこないで、突然”(覆された宝石)のような朝″が出てくる。それがどのような朝であるのかなどという考えもいらないだろう。このことばが発するイメージを感受すればよいのだと思う。
 私のところにもシュールな詩が時おり届く。そのことばの飛躍についていけるものもあれば、私の貧困な頭ではついていけない詩もある。ことばをどこまで飛躍させイメージを膨らませるかというのはなかなか難しい。やはり中心となる信念みたいなものが必要だろう。
 ところで、詩とはたくさんの体験、あらゆる経験とが、時間という濾過器を通して、心の底から沸き上がってくる感情を「待つ」ものではないかと思う。松尾芭蕉の「奥の細道」も東北地方を旅して数年後に書かれている。ことばとして熟するのに、それだけの時間が必要だったのだろう。前述の「母」や「天気」も長い間の母への想い、自然への想いがある時このような作品を「書かせた」のだと思う。まどみちおさんも″「ハッ」とした時にメモをしておいて、何をハツとしたのか、それを追及します”と言っている。
 詩とは心を澄まして「待つ」ものであり、詩人とは「待つ」ことによって溢れ出た感情を「書かされている」ものではないかと思う。