「会報」三〇〇号を祝って

                  大橋政人

 

 今号で「会報」が三〇〇号になるという。群馬詩人クラブの活動が活発に進んでいる証のようなものであろう。三〇〇号へのスピード到着の裏には、平成四年からの隔月発行ということも大きいが、何よりも各時期の幹事の皆さんの、タスキをつなごうという強い気持ちがあったればこそと思われる。
 原稿の依頼があったあと、古い「会報」を引っ張り出して読んでみた。懐かしさに読み込みそうになる気持ちを押さえながらページをめくるうちに、いくつかの面白い企画に出くわした。
 その一つは、それまでの「県内詩誌展望」に代わって一四五号(平成六十三年七月)から始まった「風吹鳥」というコーナーだった。会員二人が対談しながら県内詩誌の動向をしゃべり合うというもので、実名入りで作品を自由に批評しているのが今読んでも新鮮だった。対談者を固定せず、順繰りに交代しながら一七八号(平成六年十月)まで続いた。

 もう一つ面白かったのは一四七号(平成元年三月)の「会員からのたより」という企画。会員が、その年に発表された詩の中で、印象に残った作品三篇を選び、コメントをつけて発表するというもの。言わば、現代詩手帖の「今年の収穫」の群馬県版といつた感じのもので、四十名の会員が自分の好きな詩を挙げていた。その中の一人、國峰照子さんは「こうゆう企画があると、改めて取り出して眺めるところがいいですね」と書いていた。
 以上二つの企画に共通するのは作品と作品を交流させていること。作品本位の姿勢を尊重しながら否応もなく他人の作品を読まざるを得ない仕組みになっていることである。秋の詩祭などでの人的交流も大切だが、案外、面と向かっては他人の詩についての本音は語れないものだ。こういう企画があればこそ、会員がそれぞれ他人の詩に向き合うことができた。詩は個人で抱え込むものではなく、常に他者の目に晒されているべきものだと思う。
 最後に個人的な思い出話を一つ。一四四号(昭和六十三年三月) の「新幹事会発足にあたり」という巻頭の文章で私は「一月九日、新田郡笠懸村の大橋宅に新幹事が集まり、午後二時から延々七時間以上(後半三分の一ほどは酒も入って)の会議の結果、今後の運動方針を決めた」と書いている。私は昭和五十八年から幹事をしていたが、前橋の喫茶店でのコーヒー一杯で三時間という幹事会(何人も出席しなかったが)が苦手だった。それで群馬県の東端の私の家で幹事会を二か月に一回することにした。私にとっては極楽だったが、他の幹事には地獄だった。高崎方面から
来る人、群馬町や榛東村から来る人など様々だったが、小鮒美江さんなど汽車を乗り継いで、はるばる富岡からやつてきたのである。犠牲者の一人と言うほかない。

 (会報300号より)